コーヒーを飲みに入っても寿司を食べに入っても真剣な顔で画角や照明を気にしているインスタ蝿ちゃんたちの姿もそれほど気にならなくなってきた(飲食店での批判などが一周してある程度写真リテラシー的なものが浸透したというのと、見慣れたというのと多分半々だ)昨今、少なくとも私が好きな二重の幅が広くて向上心と自己肯定感が強い女子たちに人気の被写体はというと食べ物や買った高い靴や花火など色々あるけど、やはり自分自身だと思う。
電車でかわいい若い女子のスマホ画面を盗み見る悪趣味な私の目に映るのは、同じ画角同じ照明で何度も撮り重ねられた自撮りの数々で、そこにはプロのグラビアカメラマンのデータと同じように数ミリの差しかないものをいくつも並べ、奇跡を待った形跡が意地らしく見える。そしてフィルタやアプリは奇跡をものすごく起きやすくしているので、割とだれの手元にも奇跡が舞い降りるこの世の中は概ね幸福で溢れていると思う。
このとき彼女たちは写真家であり被写体でもある。セルフ・ポートレイトとか自画像なんていうのは展覧会に行くと大抵最初の方に出てくるし、北野武映画は武の自撮りっぽいものもあるし、日本には私小説なんていう上目遣いぷっくり唇の自撮りレベルに破廉恥なジャンルもあるし、表現する者がモデルに自分自身を選ぶことはそんなに珍しいことではない。そして彼女らの作品がある種の芸術的な奇跡を起こしているのも疑いようがない。ここで気になるのは、意識として、アーティストとモデルのどちらにより近いかということだ。
100枚近く並べられたミリ単位でしか差異のない写真を吟味する様子は、うちの地元のやる気のない写真館のおじさんよりよほど写真家っぽい。しかし例えば後ろのガラスに映ったカラスの影と反射する光が奇跡を起こしていても、自分の表情が魔法にかけられていない場合、その写真が地中深く葬られることも我々は知っている。しかし人に写真を撮ってもらうことを拒絶し、頑なに自撮りしか許さない様子などを見ると、このミューズの魅力を一番に引き出せるのはこの俺だけだと宣う芸術家が顔を出す。しかし生々しい現実とは遠く離れたとしても、サーモグラフィくらい離れちゃうと途端に情熱がなくなり、本人であるとわかるギリギリのラインを超えないあたりは自己アピール的でもある。しかし。
ブログが流行した頃、人々はこんなにも文章を書きたかったのか、と思い、インスタが流行した頃、人々はこんなにも写真を撮りたかったのか、と思ったけど、表現欲求と同じくらい被写欲求というか露出欲求というかモデル願望も強いんだなぁと、人々のブログやインスタを見返しながら思う。気持ちはよくわかる。女の子ってかわいいし、自分が一番かわいいし、さらにかわいくなれる技術は日々進化しているわけですし。
モデルというと私は竹久夢二に「お葉」として愛され、伊藤晴雨や藤島武二とジャンルのかけ離れた画家のモデルも務めた佐々木カ子ヨみたいに、刹那的で破滅的で多淫、男を惑わしコケにする、みたいな印象(というか偏見)があるのだけど、夢二がめちゃくちゃお葉に悩まされ、しかし長く執着していたように、芸術家とモデルの間の愛憎入り混じった感情みたいなものが、自撮り女子の中ではどう回転しているのかも興味はある。
もう一人、私がモデルとしてイメージするのは藤田嗣治やキスリングが描き、マン・レイのポートレイト写真の中でも最も存在感のある「モンパルナスのキキ」ことアリス・プランだった。この人もまた男悩ませ隊の隊員で、全体的に自由奔放な生活で長年恋人だったマン・レイを悩ませた上に新聞記者と駆け落ちするわアルコール依存だわ最後には麻薬の売買で逮捕までされている。多くがとても短い若い期間に、写真であれば0・何秒みたいなレベルの、ほんの一瞬の奇跡を放つことが求められるモデルが、人生全体を構築するみたいな考えと無縁なのはある種必然のような気もするけど、やっぱり写真家が夢中で撮り続ける被写体は、把握できてしまうような者ではないことが重要なのだろう。
マン・レイの作品を、彼が残した女性像を主軸に集めた展覧会「マン・レイと女性たち」は、現在葉山の近美で開かれているのだけど、私は昨年はたまたま誕生日の週に友人のシャンソン歌手と渋谷で昼食をとったついでに「近くでマン・レイ展やってるっぽいから誕生日プレゼントに奢るよ」と言われてBunkamuraで、最近はたまたま葉山に向かった道中で近美の展覧会情報で見て、2回見に行くことになった。
やはり目につくのも、作品前に人が溜まっているのも「アングルのヴァイオリン」のようなキキを写した作品で、その後の愛人兼助手だった後の報道カメラマンのリー・ミラーの作品もコーナーができるくらいには人気があるのだけど、やっぱり写真家の助手としてやってきて優れた写真技術で自立していく優秀なミラーでは、精神的にも肉体的にもヤリマンっぽいキキに比べてマン・レイが理解し過ぎるのか、いまいち影が薄いような気もする。シャネルを撮った写真はシャネル本の表紙になりがちな大変な秀作だと思うけど、やっぱりココが彼の想像範囲に収まらない奇人だったということなんだろうか。
私の持論で、女も男のことは全然理解してないと思うけど、それでもなお男の、女についてあまりに何もわかっていないっぷり、題して「坊や、一体何を教わってきたの~ポカーン編~」が抜きん出ているのは、女が知を結集する女子会を頻繁に開くのに対して、男が男子会的な場をあまり持っておらず、つまり一人の持つ知見が広まって蓄積し、血と涙の「べからず集」や「類型図鑑」が編纂されない、という事情によるのだけど、その代わり、男は女という物体を冷笑的にそういった本に編集していくよりも、神秘的なままに描き、書き、写してきたとも言える。
そう考えると下手に知を蓄積させ、やや賢くなってしまった女では、「ヴェールをかぶったキキ」のような奇跡を写せないかもしれないなぁとも思う。ちなみにマン・レイ氏は男も写しているし、デュシャンやダリやルイス・ブニュエルなど、立ち現れるのは錚々たるあの時代の人々なのだけど、どうも男は写真家がマン・レイで被写体がジャン・コクトーだとしてもかなり明瞭な出来になってしまうので、顔を把握するためにはありがたいけど何の奇跡も起こっている様子がなく、要はあまり面白くない。
それにしても、妻や恋人をモデルにする人は多く、それはモデルとした人を後に愛す場合もあれば、明治初期の日本の西洋画家たちのように、裸体モデルなんてやってくれる人がいなかったがために妻に頼むしかなかったみたいな場合もあるのだろうけど、自分を手ひどく振った恋人がモデルの作品が代表作となって、展覧会のたびにそのポスターになってたら嫌だとかはないのだろうか。そしてその後の恋人や妻の心境やいかに。
シンガーソングライターなんて、前の恋人を狂おしいほど愛していた時に描いた歌がメガヒットしちゃったら、ずっとそれ歌わなきゃファンは喜ばないみたいな状況はよくありそうだけど。トム・ヨークが「Creep」を歌わされるの嫌がってるのは、ヒット曲にしか興味を示さない大衆への絶望なんかより、そんな事情の方が強いんじゃないかと私は踏んでる。
まぁでも花房先生の本(京都に女王と呼ばれた作家がいた)を読むと山村美紗の夫は美紗の死後、後妻と仲良く暮らしながら美紗の絵を描き続けたという話だから、それに比べると主に写真のモデルだったキキの作品が作品として残っているだけというマン・レイおよび彼の後の恋人たちの方がマシかも。描くことと写すことの一番の違いは、記憶は描けても写すことができないことだろうな。
ちなみに昔、クリスマスの翌日に彼氏の家で目覚めた友人から電話がかかってきて、けたたましい音で鳴ったガラケーよりさらにけたたましい取り乱した声で「彼のデスクから半裸のパイ出し女の写真が出てきた」という報告だった。多分前の妻の写真なのだけど、その写真を盗んできた彼女が、マジックで髭やら鼻毛やら乳首毛やらを描いてストレス発散をしていたのが、ちょうど10年ほど前の大晦日の記憶。昔の恋人の写真なんかはきちんと廃棄しておきましょーね。
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