漫才頂上決戦「M-1グランプリ」。
2001年の開始以来、この賞レースに人生を左右された芸人は数知れない。チャンピオンという肩書を手にして売れっ子にのしあがっていく者、2位に甘んじながらもその後大きく開花する者、ファイナリストとなるもやがて解散の道を選ぶ者……悲喜が交錯する決勝のとき、その場に立つ芸人はいったい何を食べ、何を考えているのだろうか。
不安と緊張、そして終わったときにはとてつもない解放感が訪れるであろう数日間に食べたものの記憶は、M-1というドラマチックすぎる出来事と分かちがたく結びついているはずだ。
・・・
短期集中連載でお届けする本企画、第二弾はタイムマシーン3号さん。
当時若手の登竜門だった『爆笑オンエアバトル』(NHK)で十分な結果を残していた彼らが、初めてM-1の決勝に進出したのは2005年。関さんの体型を活かした“デブネタ”で挑むも、7位に沈む。その後は前期M-1終了まで、毎年準決勝敗退と涙をのんだ。
そして2015年、復活したM-1決勝に2人は帰還。結成15年以内という新ルール下でのラストイヤー、「なんでも太らせる」という全力のネタで会場の笑いをかっさらった。結果は4位とファイナルラウンドには残れなかったが、その存在を視聴者に印象づけたことは間違いないはずだ。
まったく違う状況で経験した二度の決勝で、2人は何を食べ、どんな酒を飲んだのか。最近では『有吉の壁』(日本テレビ)など多くのバラエティで地道に活躍するコンビに、いまあらためて聞いてみた。
プロ意識がないまま受かってしまった2005年
──本日は、新宿区・大久保にある中国料理店「料麺館」にお邪魔しています。このお店にはいつ頃来ていたんですか?
山本さん(以下、山本):2002年から2006年頃まで芸人と4人でルームシェアしてこの近くに住んでたんですよ。お侍ちゃん(※現在はサンミュージックに所属のピン芸人。タイムマシーン3号とは若手時代、同じ事務所だった。以下、お侍)とかが一緒でした。
関もネタ合わせのためにその家によく来てて、そういうときは出前をとってて。みんなでいろいろ頼んでちょっとずつ小皿で食べてましたね。
関さん(以下、関):(メニュー表を見て)あー、麻婆茄子丼食べてたなぁ!
山本:ナスが超トロトロで八角の味がしてうまかった。これは頼もう。当時はカニの炒めものとか憧れましたね! あまりにお金がなくて、頼めなかったんですよ。
──では今日はせっかくなのでぜひ頼んでください(笑)。06年頃まで住んでいたということは、タイムマシーン3号さんが最初に頭角を現した『爆笑オンエアバトル(以下、オンバト)』(NHK)によく出られていた時期ですね。ここのごはんを食べながら、当時ネタをつくっていたわけですか?
山本:そうですね。でも、ネタをつくろうってことで関が家に来るんですけど、ほかにも芸人がいるんで絶対遊んじゃうんですよ。プレステで『ウイニングイレブン』やってみたり、だらだら後輩いじってみたり。
そんなことばっかりやっててネタが全然進まないんです。関がただ中華食って帰るだけの日もありました。
関:ネタ合わせ行く前にお侍に連絡して注文しておいてもらって、着くと同時に回鍋肉丼食ってウイイレやって帰るっていうね。その足で漫画喫茶行く。
▲「これ食べてた気がする!」と嬉しそうな関さん
山本:大学生じゃねぇか(笑)。プロ意識がなかったですね。仕事としてちゃんと向き合ってなかったんですよ、たぶん。
みんながネタつくって1〜2カ月かけてライブでやって仕上げてる中で、僕らは収録前日の夜中からやっと本腰入れてつくりはじめて、それでなんとかお茶を濁してオンエアされる、そんな生活でしたね。2003~2005年あたりは、遊びの延長の感覚がありました。
──それであれだけオンエアされていたのは、すごいことですが……。そしてまさに2005年はM-1の決勝に初めて進出された年です。何かギアを変えて真剣に向き合って結果が出た、ということなんでしょうか?
山本:いえ、特にそういうことでもなくて。オンバトとM-1が当時の若手の二大大会ではあったんですけど、順番としてはオンバトのあとにM-1ができたじゃないですか。
ファミリー向けの「明るく玉を入れましょう」っていう番組から、玄人が審査する本物志向の大会に、急に毛色が変わっていった。
僕らは2002〜2004年はオンバトのほうに力を入れてたんですけど、それが徐々にM-1の玄人好みのテイストと噛み合ったのがちょうど2005年だったんだと思います。
関:だから2005年の決勝は「いっちゃった」くらいの感覚でしたよ。今はみんな、スポーツみたいに「1年かけて絶対決勝に行くぞ」ってなってると思いますけど、当時の僕らは「M-1の時期だねぇ」「何やろうか」くらいで出たら、準決勝でめちゃくちゃウケて。
山本:M-1に合わせた戦い方も特になく、オンバトで鍛えた会場のお客さんを盛り上げる地力だけで出たら、信じられないくらいウケました。
会場がルミネ(the よしもと)だったんですけど、しゃべったこともない吉本の先輩から「お前ら絶対いったな」って言われるくらい会場が超湧いた。
関:「やべぇ、通った、どうしよう」って、受かってから焦りました。まだ25歳でしたし、あの年の決勝メンバーの中でもいちばん若かったと思うんですよ。ただただ怯えてて、心構えは全然できてなかったと思います。
「明日からどうやって生きていこうか」と思った
──決勝までの時期はどう過ごしましたか?
関:それこそあんまりごはんが食べられなかったですね。緊張から来るものだと思うんですけど、気持ち悪くなっちゃって。2週間あって、前半はずっと憂鬱でした。
山本:当時所属していたのがアップフロントエージェンシーだったんですよね。アイドルとか音楽の事務所なんで、アドバイスをもらえる先輩もいなかったんです。
だからひたすら練習するしかなくて、家で後輩にネタ見せたりして。お侍なんてイエスマンだから「おもしろいっすよ!」しか言わない(笑)。
関:「そう? やっぱり?」って。そのうぬぼれだけ持って決勝に行きました。
──迎えた決勝当日、何を食べたか覚えていますか?
山本:局でお弁当食べたと思います。入りがいちばん早かったんですよ。自発的に、6時間くらい前に入ってました。まずテレビ局自体に慣れてないんで、面食らっちゃうから早めに行って練習しよう、と。
関:何食べたかなぁ……前日は験担ぎでカツ丼を食べたと思います。そのときは妹と住んでたから、つくってくれたのかな。
──出番は7番目と、後ろのほうでした。ネタをやっている間はどんな感触だったんでしょう。
山本:準決勝の会場だった「ルミネtheよしもと」では、ツカミからウケてだんだん加速していって大爆発して、最後はほとんど拍手笑いだったんで、そのイメージのまんまいったんです。そしたら最初に1〜2個ボケやった時点で「あれ、全然ウケねぇぞ」って。まったくウケなかったよね。
関:すごいですよ、あの短い4分の中でいろんなこと考えました。「ちゃんとネタやらなきゃ」「でもルミネほどウケてない!」って考えが走馬灯みたいなスピードでよぎって、最後冷静に「あんま笑わせてないな」って思っちゃうくらい。
山本:お客さんの顔なんかまったく見れなかったです。後から映像で見るとお客さんも笑ってくれてはいるんですけど、実感としてはめっちゃスベってるなって感じてました。
客観的に振り返ると、この年は小手先で決勝に行ってしまったんですよね。ここで絶望するんですよ。今までやってきたスタイルでマックスにウケて決勝にいったのに、その先ではウケない。
プロの場では通用しないんだったら、どうしたらいいんだ、って。「明日からどうやって生きていこうか」ってくらいでした。
関:ここからは複雑な時期でしたね。決勝に行ったことで仕事は増えて、多少お金は持つようになったんですよ。バイトもしなくていい、オンバトはまぁまぁ出れる。
これが80歳なら最高の人生なんですけど、「このままいけばいいかな」って思ってるうちにゆっくり仕事は減っていくわけです。
──その後のM-1は、2006〜2010年まで毎年準決勝敗退と惜しいところで涙を飲み続けました。同期であるNON STYLEやオードリー、ナイツがM-1をきっかけにブレイクしていった時期でもありますが、焦りはありましたか?
山本:2005年の決勝で審査員の渡辺正行さんに「デブキャラ1本じゃキツいね」って言われたんですよね。それで別のやり方をいろいろ探してた時期です。
M-1自体も、上から順番に8組の面白い漫才師が勝ち上がるっていうよりも、8種類のタイプが上がっていく風潮になってたんですよ。ベタがいたらスカシもいて、変化球がいて、っていう。
だからその隙間を探していくしかないだろうと思ってやってたんですけど、まぁそれが全然見つからず。ボケ・ツッコミを入れ替えたりもしました。
関:ネタに関してスランプだったのかなと思いますね。それまでの形に自信がなくなってたんで。特に2005年の決勝でブラックマヨネーズさんを見てしまって「あれが答えだ」って思っちゃったんです。
だったら俺らがやってるのはちょっと違うなぁ、漫才とは言わないんじゃないかって。それでまた次の年のチュートリアルさんは、徳井さんがありのままの本人として優勝するのを見て「嘘のキャラクターではしゃぐのは違うのか……!?」って存分に悩みました。
山本:お手本を探すことしかできなかったんですけど、手本にしてる時点で横並びにはなれないじゃないですか。それまでもいろんな人を参考にしていたけど、もう自分たちも同じ舞台に立っちゃってるんだから、ライバルなわけで。
関:それだけ迷いながらも毎年準決勝までいってましたから、大したもんだとは思うんですけどね。敗者復活でも1〜2回はウケた年があったんですけど、届かなくて。
山本:たぶん、その年に初めて出てきたコンビだったらいけてたんですけど、2005年の決勝でウケなかったから、審査する作家さんたちも楽しみがなかったんだと思います。
当時上がれるのは、三振するときもあるけど当たればホームラン打つってタイプの人たちが多かったから、「二塁打打つタイプでしょ」って思われちゃうと出られない。そりゃそうだよなって思ってました。
関:準決勝や敗者復活でウケても、「2005年の準決勝よりはウケてないな」って自分たちでわかっちゃうしね。当時はネタ合わせと称して「人間ってさぁ」みたいな話をずっとしてました。頭で考えても答えが出ないようなことばっかり、ずーっと。
山本:蓋開けてみりゃ、優勝してる人たちはただの天才だったんで。そこを真似しても絶対に無理なんですよね。
関:考えすぎてました。時間だけはムダにあったんで、賢くもないくせにああだこうだ悩んで。
またちょうど『エンタの神様』(日本テレビ)や『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ)で人気者がいっぱい生まれてたんで、ことさら「どうしようかな」ってなったんですよね。(餃子到着)
終わってくれたほうが気が楽だなって
関:餃子でかいね〜、いいね!
山本:あー、懐かしい! 出前だったんで、こんなアツアツじゃなかったんですよ。ちょい冷めで届くから。
▲焼き餃子(462円)のうまさに目が開く山本さん
関:湿気のついた脂っぽいラップ剥がしてねぇ。(餃子食べる)ほほ、うまい(笑)。
山本:皮がモッチモチなんだよな。
関:一口目、タピオカだわ。
▲モチモチの皮を堪能する関さん
──食べながら続けましょう。そして2010年、M-1が一度幕をおろします。終わるという話を聞いたときはどういう気分でしたか?
山本:秋くらいに僕らが聞いたのは、終わるというよりは名前を変えて他局に移るっていう噂だったんですよ。だから「なくなっちゃうんだ、ショック!」って感じではなかったですね。
関:でもやっぱり、「終わっちまえ」ってちょっと思ってましたけどね。自分たちは決勝にいけないのに毎年どんどんスターが生まれるから、終わってくれたほうが気が楽だなって。
こんなに悩んでダメで悔しい思いして、それから解放されるんだ! って気持ちもちょっとありましたよ、正直。そのときは言えなかったですけど。
山本:その翌年から『THE MANZAI』(フジテレビ)が始まりましたけど、僕らはことごとくハマらなかったんです。平気で3回戦落ちしたりしてました。
今まで通りやってたのに全然受からなくて……なんだったんだろうな、結局。蓋開けてみたら、M-1よりちょっとだけポップな大会だったんですよね。
関:僕らと同期の、似たような芸人が結構決勝にいってたんですよ。三拍子とか流れ星とか、磁石とか。でも俺らだけいけなかった。
山本:俺らの2005年の決勝を見てて、「これまでのやり方じゃダメなんだ」ってそのへんの関東の芸人に戦慄が走ったんですよ。
それでみんな手を変え品を変えいろんな漫才をやってたんですけど、そんな時期を経てTHE MANZAIではオンバトのまんまやってウケてるんですよ。
こっちは「それじゃダメだって聞きましたけど!?」って感じでした。だから2015年にM-1が復活すると聞いたときは「帰ってきた!」って思いましたね。
M-1で負った傷はM-1でしか癒せない
──2015年の準決勝を生で見てました。決勝でも披露した「太らせる」、爆発的にウケてましたね。
山本:爆発してましたよね!
関:あれは気持ちよかったです。
▲料理が次々到着。関さんはネギチャーシュー麺(825円)と半チャーハン(418円)
山本:決勝確定した、と思いました。あのネタは予選の半年くらい前からできてて「やけにウケるな」って思ってたんです。
だからかなり早い段階で「このネタでいこう」って決めて、いろんなライブでやって精査して。一個のネタをこんなにブラッシュアップさせていったのは初めてかもしれないですね。
「見つけた! これだ!」ってなりました。
ボケ・ツッコミが逆になる最後のひねりも入れて、これをさらに伸ばしていったらどうなるんだろうって試して……ちゃんと漫才が自分たちのものになった感覚がありました。
──試行錯誤の過程で年齢を重ねて、いわゆる芸人さんがいうところの“ニン※”が出てきて良くなったという部分もあったんでしょうか?
※ここでは、本人の人間性がネタや笑いのとり方にあらわれている様子を指す
山本:あ、それはね、僕ら結構前にもう諦めたんですよ。ずーっと「ニンが大事だ」「ニンがない」って言われてて、もういいよ! って。
関:それがいちばんのスランプですよ……。
山本:2013年に太田プロに入ったのも大きかったです。有吉(弘行)さんとかいろんな先輩方にそういうことを相談すると「もうそのままでいいじゃん」って。
「お前らはとにかくウケるんだから、それををわざわざ変えてウケなくして認められる必要なくない? “ウケる”っていちばんじゃん」って言われたんですよね。
たしかに、ウケるためにやってるんだからそうだよな、って。それであらためて自分の精神の落とし所が見つかったんでしょうね。
関:それまでどこか疑問に思いながらやっていて、ようやく腑に落ちたのが2015年なんですよ、たぶん。
▲山本さんは思い出の麻婆茄子丼(825円)
──それこそスランプの時期にいろいろなスタイルの漫才を試して、ボケ・ツッコミ入れ替えたりもしたからこそ「太らせる」ネタの最後のひねりができたのかな、と今お話を聞いてて思いました。
2人:あー、たしかに。
関:言われてみるとそれはあるかもなぁ。ずっとボケ・ツッコミ変わらずにやってたら最後も変えなかったかもしれない。
山本:俺もボケた経験があるからね。
関:もっとストーリーがあるものにしてたかも。逆にしてみたとき、山本が単発でボケていくようなネタもやってたんですよね。いろんな試行錯誤がこのネタまでつながってるかもしれないですね。
山本:デブネタ以外のものを10年間ずっと探して、いちばんのデブネタが最後に爆発しましたからね。
ただ僕らとしては、デブネタで準決勝でめっちゃウケて決勝に行くのが2005年と同じ流れだったんで、ちょっと怖かったんですよ。「またウケないパターン、あるぞ!」って。
でも出ていってみたらお客さんが以前よりも前のめりで、ツカミから拍手が来たんで「あれ、これイケるかも」ってめちゃめちゃ楽しくなりました。
たぶん、あの年の準決勝と決勝がどんな舞台よりも人生でいちばんウケましたね。
関:それはたぶんそう。
山本:僕らとしてはあんまり「優勝したい」って感覚がなくて、「すべりたくないな」って思ってたんですよ。もう1回あれを経験したら、もう10年後はないぞ、って。
それがちゃんと通用したんで、結果的にファイナルラウンド行こうが行くまいがどっちでもいいというか、そこまでの野心はなかったです。
自分らが認められて、2005年にスベったのをなんとか払拭できたなって安堵のほうが大きかったです。あの傷はほかのことやったって癒えないんで。だから優勝しなくても、僕らの人生が変わったのは2015年です。
関:結果として、M-1については満足してます。損も得もある大会だと思うけど、得した側だと思います。あれで初めて知ってくれた人とか、思い出してくれた人も絶対いたんで。
前夜のおにぎり、後夜の焼肉
──この年はどんなものを食べて決勝にのぞんだんですか?
関:これが、当日昼に岐阜で子供番組の収録があって、前日から泊まりだったんですよ。本当に田舎だったんで、夜着いたらお店も何もなくて……駅に併設されてる、チェーンでもないコンビニでカップ麺とおにぎり買って済ませました。
山本:そうだそうだ。俺もおにぎりだった。ホテルの部屋に集まってネタ合わせしました。
関:全然気合が入るようなものは食べてないですね。当日、子供番組で顔白く塗って地蔵の格好して立ってる役だったんですけど、「この後M-1だなぁ……」って思ってるから全然集中できなくて。
申し訳ないですよ。途中で収録を出てタクシー飛ばして新幹線に乗って、ギリギリでした。
山本:本番開始の10分前に着きましたね。リハもできなかった。一個仕事終えてきてるんで、緊張感はそんなになかったです。でもそれが逆に良かったのかもしれません。
それでいうと、終わったあとはお侍を呼んで3人で焼肉行きましたよ。一緒に苦汁をなめてきたんで「良かったぞ、俺たち!」って言いたくて。
関:あれは思い出のメシですねぇ。スタッフさんたちと全体の打ち上げがあって、その後に内々で行こうって2人で帰ってね。前日の夜からまともなもの食べてないんで、そこでやっとおいしいもの食べて「終わったね、良かったね」って思った気がします。
──M-1の後にコンビで飲みに行くのは珍しくないですか? わりとみなさん、別々で過ごされますよね。
山本:そうなんですよ。友達がいないんですよ、我々は。2人でタクシー乗って帰りました。
関:テンション上がったんだと思いますよ。なかなかそういう機会もないですけど、自然な流れでいきましたね。
山本:「お侍呼びたいな」ってなったもんね。
関:最初に会いたいのがあいつだったと思うと……
山本:残念な人生ですよね(笑)。
関:もうそのときは嫁もいたんだけどな。お侍が先だったな。
──焼肉を食べながらどんな話をしたんですか?
山本:ウケたのは自分でもわかってるくせに「ウケてた?」って聞いたりしてました。
関:確認ね。「最後ボケツッコミ反対になったんだけどさぁ、あそこどうだった?」
山本:「ウケてましたね」って、めちゃめちゃ言わせたいじゃん。
関:焼肉なんてどうでもよかったかもしれないですね。お侍の言葉が聞きたいだけで。
俺たちは「専門料理店」じゃない
▲当時は憧れだった、渡り蟹炒め(塩味・醤油味ともに1,485円)
──タイムマシーン3号さんに対して、「賞レースからブレイクした芸人」という見方をしている人は少ないと思うんです。でもおそらく「ずっと“いる”なぁ」とは思われてるじゃないですか。
山本:ずっといますよねぇ(笑)。
──ずっと出続けられている理由はどこにあると思っていますか?
山本:結果的に、その都度その都度に合った料理を提供しているからですかね。「俺達の料理はこれです」って出すんじゃなくて、時と場合、共演者や企画内容が変わればそれに合わせていく。
昔はそれが仇になってたんですけど今となっては功を奏して、ブレイクしない代わりにダラダラいられるのかなって。それにおじさんになって“ニン”が勝手に若干ついてきたんですよ。
「小器用だけど売れない」ってキャラがついて、先輩もいじれるようになった。ほかの人にはできないことだから、それでもいいのかなって思います。そういう開き直りが今の出方につながるのかもしれません。
関:料理屋でいうと、専門店じゃないですからね。メインメニューはないけど、お客さんの食べたい料理をある程度おいしい味でなんでも出しますよ、ってタイプのお店。
山本:だから子供番組からのサンドリ(『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』〈JFN系列のラジオ番組〉)まで、いくらでもやります。年とってきて、こだわりがないのが嫌じゃなくなりましたね。
関:昔は嫌だったからね。
──合わせにいっちゃう自分たちが嫌だった時期もあったんですね。
関:ありましたね、やっぱり。「かっこわるいな」って思ってましたから。自分たちもそうなのに、そういうのをやってる芸人見ると「ダサいなぁ。こうならないようにしよう」って思ってました。
山本:でもそれしかできないんでねぇ。
関:どうやらね。あがいた結果、やっぱりできないなってわかったんで。今の俺らを「すごいっすね、たくさんの人にいっぱいウケて」って嫌味なく言ってくれる後輩も出てきてるんですよ。じゃあこういう形でも間違ってないのかなって。
山本:いい意味で個性がなかったんで、ここまで来られたのかな、と。達観じゃないですけど。
関:それに、「ずっといる」って強みがあるんですよ。オンバトを10〜20代で見ていた世代がいま親になって、子供と一緒に見てくれてるんです。
営業行っても、子供も親もどっちも盛り上がってくれて。20年近くダラダラ続けてきた成果がちょっと実ってきたかなって。今はそういう時期なんだと思っています。
撮影:映美
プロフィール
タイムマシーン3号
山本浩司(やまもと・こうじ)1979年生まれ、新潟県出身/関太(せき・ふとし)1979年生まれ、群馬県出身
2000年結成。太田プロダクション所属。『有吉の壁』(日本テレビ)、ラジオ『藤田ニコルのあしたはにちようび』(TBSラジオ)などレギュラー、準レギュラー多数。
お店情報
料麺館
住所:東京都新宿区北新宿4-1-17 寿コーポ 1F
電話:03-5330-6642
営業時間:11:00〜15:00/17:00〜22:00 ※2020年12月現在。国や都の要請に応じて変動する可能性がございます。
定休日:日曜日
書いた人:斎藤岬
1986年生。編集者、ライター。月刊誌「サイゾー」編集部を経て、フリーランス。編集担当書に「HiGH&LOW THE FAN BOOK」など。
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